1.はじめに 今回は東京のまちなみがテーマです。東京の町の前身は古く江戸以前にさかのぼりま すが、古いまちなみは今の東京にはほとんど残っていません。それは、この町が江戸時 代より幾度となく大規模な都市災害に遭い、そのたびに新たに復興するという歴史を繰 り返してきたためでしょう。このまちなみの立地条件や歴史をたどって、どのように発 展してきたのか、そして今どう発展しようとしているのか探ってみることにします。 東京はその昔、江戸という港のある小さな町でしたが、慶長 けいちょう 8年(1603 )に徳川家康 が幕府を開いて軍事および政治の拠点として以来、士農工商の身分制度の基で武家地・ 寺社地・町人地など身分別に住むよう土地区画され、計画的な町づくりが進められまし た(図1)。政治の中心地として参勤交代の制度が始まると、街道や運河が発達し、多数 の人々や多量の物資が江戸 に集まるようになり、江戸 城を拠点に一大城下町が築 かれました。江戸時代初期 の頃は、町の中心に五層の 江戸城天守閣がそびえてい て、幕府の権威の象徴でも あり、江戸庶民にとっても 町のランドマークとなって いました。しかし、この天 守閣も明暦 めいれき 3年(1657 )の いわゆる明暦の大火によっ て、江戸城下の6割ととも に焼失してしまい、再建さ れることはありませんでし た。 江戸城天守閣のような人工的ランドマークがなくなると、庶民は富士山や筑波山や 大山 おおやま といった周囲を取りまく山々に象徴を求めるようになりました。まちなみの中に美 しい富士の姿を望む富士見坂などの名称が残るのもその例です。このように幕府の政権 は安定し、江戸の平和は守られていましたが、安政2年(1855 )におこった安政江戸地 震は、荒川河口付近を震源としたマグニチュード 6.9 の直下型地震であったともいわれ、 町人・武士合わせて死者7000 人弱、火事よりも建物の下敷きになった人が多かったとい います。 明治時代になると、維新政府は江戸を東京と改め(1868 )、西洋の制度と新しい技術を 取り入れ、鉄道を敷いたり、煉瓦づくりの家を建てて、文明開化を推進させました。庶 1 図1 江戸時代はじめの地図 1) 武家地(白色)・寺社地(ピンク色)・ 町人地(茶色)が色分けされている。