民の好奇心を駆りたてた文明開化の精神は西欧風の堂々たる塔やドームに形として表さ
れました。当時、東京最大の盛り場として人気を博した煉瓦造りの塔、凌雲閣
りょううんかく
(通称十
二階,高さ67m;浅草六区にあった)やお茶の水の高台にあるニコライ堂、千代田区日比
谷にあった鹿鳴館
ろくめいかん
などはその象徴的な建物でした。
安政江戸地震の68 年後、大正12 年(1923 )9月1日、関東大震災がおこりました。相
模湾を震源とするマグニチュード 7.9 の海洋型巨大地震でした。木造家屋が密集する本
所・深川などの下町地域を中心に約38 ㎞
2
を焼失、強風という悪条件が重なり熱風に襲わ
れて、犠牲者は約6万人に
達しました。この関東大震
災で下町に残っていた江戸
情緒はすっかり失われてし
まいました。復興計画は、
当初港を含む東京市全体を
つくりかえるほど大規模な
ものでしたが、予算が足り
ず、現在の昭和通りや靖国
通りなどの広い道路、公園
や橋、学校や病院など鉄筋
コンクリートの建物がつく
られ、鉄道(写真1)は修理
する程度、焼けた地域のみ
の改造にとどまりました。
震災後、まちなみは新しく洋間のある文化住宅が建てられ、電灯やガスコンロなどが
復旧し、繁華街にはネオンも輝いて、丸の内や日本橋にはオフィスビルが立ちならぶ一
方、下町では長屋とよばれる庶民の住宅で多くの人々が質素な生活を送っていました。
震災の復興もままならない昭和20 年(1945 )には、太平洋戦争終結に向かって約120 回
もの空襲を受け、またしても東京は焼け野原となってしまいました。戦後の復興・発展
は周知のとおり目覚ましく、東京オリンピックが開かれた昭和39 年(1964 )までに高速
道路(首都高速一号線)や新幹線(東海道)を開通させて、世界に東京の復興をアピー
ルしたのです。最近では池袋のサンシャインビルや新宿副都心の超高層ビル群が林立し、
そこに新都庁舎も加わり、このようなユニークな風貌
ふうぼう
が都市空間の中で一段と高くそび
えるランドマークの存在は、その町のイメージを形づくる上で大いに貢献することでし
ょう。
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写真1 神田駅西口付近
震災後の大正14年(1925)に神田-上野間が開通
して一周できるようになった山手線の高架線