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4.多摩川と人々との関わり
多摩川がもたらす水の恩恵は、前章までの説明のようにはかりしれない。
かつての大都市「江戸」の発達は、神田上水に続く多摩川から引き込んだ玉川上水の
水により、生活基盤が確立されたことによる、といっても過言ではない。人口の増加と
それに伴う慢性的な水不足は、江戸の大きな問題であった。また、江戸における上・下
水の管理は、伝染病防止、生活維持、農業発達などに大きな役割を果たしていた。
その後、コレラ騒動や三多摩編入問題、あるいは小河内ダムの完成など、江戸~現代
にかけても多摩川と人々との関わりは大きく、今でも多摩川は東京の水がめとして大き
な役割を担っている。そこで、多摩川と人々との関わりを、多摩川から水を引き込んで
いる玉川上水、また昭和に入ってから戦争で中断しながら完成を見た小河内ダムの歴史
を振り返ることで紹介する。
4-1 玉川上水
玉川上水には様々な逸話もあるが、一般的な歴史を述べると以下のとおりである。
(1)玉川上水の歴史
三代将軍家光が定めた参勤交代制度により江戸は著しく発達し、人口の急増から大規
模上水の開設が必要になった。上水計画に名乗りをあげた玉川兄弟(兄:庄右衛門、弟:
清右衛門)は多くの困難を克服して、1653年(4月4日~11月15日)、多摩川上流の羽
村から四谷大木戸までの約43km間を約8ヶ月という短期間で掘り上げ、翌年江戸市中
に給水した。
図21 玉川上水全体図、分水図
11)
玉川上水は、羽村からいくつもの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜線に至
り、そこから比高差92mの緩勾配の尾根筋を巧みに利用して四谷大木戸まで到達する
自然流下方式による導水路である(図21参照)。また、稜線(馬の背)を流すことで分
水が可能となり、これらの分水が飲料水、水車、かんがいに利用され、水に乏しい武蔵
野台地の開発に大きく貢献した。