25 表3に江戸時代以降に東京(江戸)で被災した主な地震と発生機構を示す。 表3 江戸時代以降に東京(江戸)で被災した主な地震と発生機構 20),21) 和暦 西暦 地震名 東京の 震度 被災状況 発生 機構 元禄16年 11月23日 1703 元禄地震 7.9 8.2 5~6 死者1万人以上(うち江戸で340人)。家屋全壊 22,424棟、江戸は下町の被害が大きい。 海溝 安政2年 10月2日 1855 安政江戸 地震 6.9 ± 0.1 6 激震地域は江戸の下町の本所・深川・浅草・ 下谷。出火30余ヶ所、焼失面積2.2㎞ 2 。江戸 町方の被害;死者約4,000人、潰家・焼失約 14,000棟。 直下 明治27年 6月20日 1894 明治東京 地震 7.0 5~6 東京・横浜などの東京湾岸の被害が大きく、 内陸は軽い。東京府で死者24人、負傷者157 人、家屋全半潰90棟、破損4,922棟。 直下 大正12年 9月1日 1923 関東地震 7.9 6 火災が発生し、被害を大きくした。東京府で 死者68,215人、負傷者42,135人、不明39,304 人、家屋全半潰54,811棟、焼失377,907棟。 海溝 東京の地形・地質と過去の大地震の被災分布との関係を考える。図26に天正18年 (1590)頃の江戸の地形状況 21) を示すが、現在の東京駅付近から有楽町・新橋にかけて 南南西の方向に江戸前島、あるいは日本橋台地と呼ばれる半島状の波蝕台が伸びてお り、その西の千代田区側は、海であることがわかる。丸の内~日比谷~新橋までの一帯 は日比谷入江と呼ばれ、この入江の北に平川が流れ込んでいて、小石川方面につながる 低湿地帯をなしていた。その入江に西から張り出している武蔵野台地の突端の一つに太 田道灌時代の江戸城が築かれていた。安政江戸地震(M=6.9±0.1、直下型)では隅田 川低地のほかに、石神井川、平川沿いの低地帯で家屋の被災が多かったと記録されてい る。また、江戸城和田倉門(ワタクラ、すなわち「海の倉」であり、「日比谷・入江の 最奥部の倉庫」を意味した)一帯の被災も激しく、こうした被災分布から洪積台地と 沖積低地、丘と谷と入江の形姿が残酷にくっきりと再現された。図27に1460年頃の東 京の地形 22) を示すが、隅田川、石神井川、平川、古川等の流域には、それぞれ千束池、 不忍池、大池、千鳥ヶ淵、溜池、古川池等があった。関東地震ではこれらの各池の一 帯は家屋倒壊が多いことがわかる。不忍池、千鳥ヶ淵、溜池(溜池は3章に述べたとお り、当時は現在の弁慶堀~赤坂東急ホテル~山王神社下~溜池交差点付近まで至る広大 な細長い池であったが、埋め立てられ現在は弁慶堀付近のみ残っている)は現存してい るが、千束池、大池、古川池等は埋め立てられている。関東地震ではこうした地盤が軟 弱な地帯では建物の全潰率から震度6強~7であったことが想定されている(図28~ 30 22) )。表4に関東地震の住宅全潰率と震度との関係を示す。