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していた江戸、明治時代の風情を回想させるもの
である。江戸中期の享保年間(1716~36)、徳川
八代将軍吉宗の命により隅田川河畔の墨堤に植樹
されて以来、上野と並び桜の名所となった。現在
も吾妻橋から桜橋間の両岸に広がる隅田公園を中
心に多くの人が繰り出している。
(2)山谷堀
江戸のころより山谷堀と呼ばれたこの水路は、
遊郭吉原への江戸中心部からの通い道であった。
粋人(遊び客)たちは神田川の最端部の浅草橋
や柳橋から船足の速い猪
ちょ
牙
き
舟(屋根のない細長
い小船)を仕立てて隅田川をさかのぼり、吾妻
橋をくぐってしばらく遡行してから左に折れて
今戸橋をくぐり、山谷堀を半里ほど進んで吉原
大門近くの土手(日本堤とよばれ、徳川二代将
軍秀忠が山谷堀に沿って高さ3mの防水堤を築
かせ、日本中の大名を動員したため日本堤と呼
ばれた)で舟を降り、衣紋坂と呼ばれる土手を
下りさらに五十間歩いて吉原大門の前に立った
ものである。現在、堀は完全に埋め立てられ、
山谷堀公園となり、隅田川合流部付近に「今戸橋」の親柱が現存している(写真8)。
「竹屋の渡し」は、隅田川にあった渡し船のひとつで、山谷堀口から向島三囲神社(墨
田区向島2丁目)付近を結んでいた。明治40年発行の「東京市浅草全図」では山谷堀入
口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており、「待乳の渡」
とも呼ばれた。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれている。
江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場一帯は風光明媚な地として知られ、さまざまな文
写真9 竹屋の渡し跡(今戸橋付近)
写真7 墨堤に現存する常夜燈跡
写真8 山谷堀の隅田川との合流
点にあった今戸橋親柱
写真10 花の碑(隅田公園内)