17 していた江戸、明治時代の風情を回想させるもの である。江戸中期の享保年間(1716~36)、徳川 八代将軍吉宗の命により隅田川河畔の墨堤に植樹 されて以来、上野と並び桜の名所となった。現在 も吾妻橋から桜橋間の両岸に広がる隅田公園を中 心に多くの人が繰り出している。 (2)山谷堀 江戸のころより山谷堀と呼ばれたこの水路は、 遊郭吉原への江戸中心部からの通い道であった。 粋人(遊び客)たちは神田川の最端部の浅草橋 や柳橋から船足の速い猪 ちょ 舟(屋根のない細長 い小船)を仕立てて隅田川をさかのぼり、吾妻 橋をくぐってしばらく遡行してから左に折れて 今戸橋をくぐり、山谷堀を半里ほど進んで吉原 大門近くの土手(日本堤とよばれ、徳川二代将 軍秀忠が山谷堀に沿って高さ3mの防水堤を築 かせ、日本中の大名を動員したため日本堤と呼 ばれた)で舟を降り、衣紋坂と呼ばれる土手を 下りさらに五十間歩いて吉原大門の前に立った ものである。現在、堀は完全に埋め立てられ、 山谷堀公園となり、隅田川合流部付近に「今戸橋」の親柱が現存している(写真8)。 「竹屋の渡し」は、隅田川にあった渡し船のひとつで、山谷堀口から向島三囲神社(墨 田区向島2丁目)付近を結んでいた。明治40年発行の「東京市浅草全図」では山谷堀入 口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており、「待乳の渡」 とも呼ばれた。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれている。 江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場一帯は風光明媚な地として知られ、さまざまな文 写真9 竹屋の渡し跡(今戸橋付近) 写真7 墨堤に現存する常夜燈跡 写真8 山谷堀の隅田川との合流 点にあった今戸橋親柱 写真10 花の碑(隅田公園内)