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(2)橋の歴史的変遷
隅田川の最初の橋は、徳川家康の江戸入府直後に架けられた千住大橋である。この橋
は、奥州街道を渡す橋であり、東北の伊達氏をにらむ戦略上の必要から、架橋を急いだ
もので、創架以来火事や洪水による被害もなく、江戸三百年を生き抜いて明治をむかえ
た名橋である。一方、江戸中心部を流れる下流部に、はじめて橋が架けられたのは、両
国橋で千住大橋から70年後のことであった。元禄年間に入ると、新大橋と永代橋がたて
つづけに架けられた。以降、幕府は、これら隅田川橋梁の管理に苦慮しつづけることに
なるが、最大の悩みは頻繁におこる火事(およそ3年に1回の大火)と洪水であった。
火事による橋梁の被害は、深刻なものがあり、多くの被災記録が残されている。江戸市
街の2/3を焼失し、死者10万人を出した明暦の大火では、市中の60橋が焼失している。
一般に、木橋の耐用年数は、20年といわれていたが、洪水による橋梁の被害記録による
と、平均して2.5年に1回の割合で流出、損壊などの被害を受けた。
大正12年(1923)9月1日の関東大地震では隅田川の橋梁被害も甚大で、永代橋、両
国橋、厩橋、吾妻橋が火災により機能を失ったが、床組に鋼、コンクリートを用いてい
た新大橋のみが被害をまぬがれた。こうした被害状況を踏まえて、耐火、耐震性の高い
橋梁を目指して、復興事業がはじまった。隅田川では、永代橋、清洲橋、両国橋、蔵前橋、
厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋および相生橋の9橋と、白鬚橋と千住大橋が架け替えら
れた。
4-2 橋の構造と文化について
(1)江戸時代の橋の構造
19)
江戸時代の隅田川の架橋資料は、「東京市史稿橋梁編」に詳しく掲載されている。し
かし、例えば工事仕様でどれを採用したか等が不明で、文献の内容やつながりのはっき
りしないものがあり、こうした資料も安政年間以降残されていない。江戸時代の橋の施
策を概観すると、幕府の組織、制度に内在していた以下の問題点があった。
①橋の建設を担当する部署は固定されていなかった。
②橋の維持管理をまかなう財源制度が未整備であった。
③橋の工事を発注する役所と受注する大工棟梁との相互理解が十分でなかった。
ここでは、当時の橋の断面図と代表的な施工方法を紹介する。