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(2)隅田川と荒川間の水門
江戸時代以降、東京の低地は舟運が盛んになり、人工的な水路整備と埋立てによる土
地利用を繰り返してきたが、明治以降、鉄道網や道路網の急速な発展により舟運は次第
に衰えていった。
一方で明治時代から隅田川河口に工業が立ち並び、商業地は内陸へ拡大していった。
工場は地下水を汲み上げ、競って工業用水として使用した結果、隅田川と荒川に囲まれ
た江東三角地帯は地盤沈下が進行し、50年間で最大4mも地盤が沈下した箇所もあった
(図31)。現在は地下水くみ上げを規制しているため地盤沈下の進行は収まっているが、
地盤高がA.P.±0m以下のいわゆる0m地帯は84km
2
にまで達している。このため0m地
帯を含んだ江東三角地帯では高潮対策がとられ、地盤低下とともに河川堤防のかさ上げ
を繰り返した結果、大地震に対する抵抗力が小さい堤防が多く建造されることになった。
江東三角地帯を流れる河川(小名木川等の運河)
は江戸時代の水路整備の名残りであるが、近年は災
害時の救援物資運搬や被災者救護など新たな防災ネ
ットワークの一端を担うと期待されている。しかし
これら河川には潮汐変動を含む水位差があり、船で
行き来するのは容易ではない。このため河川間の接
続部には水位の異なる2つの河川をつなぐ施設とし
て閘
こうもん
門(ロックゲート)が設けられている。
図31 地盤沈下量の計時変化と地盤高平面図、断面図
23)
写真35 荒川ロックゲート
24)
※河川の水位と地盤沈下した低地、
高潮対策を採った堤防に着目