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このような資料から、千住付近の古隅田川が合流する部分より東京湾までの下流側
が、概して荒川の「瀬換え」以降の隅田川分類になるものと推定される。以前の隅田川
の河道は、より上流の分類と、合流する河川の多さ、瀬替えの変遷によって様々な諸説
があるようである。
一方、隅田川と荒川の分岐から始まる現在の荒川(荒川放水路)は、明治40,43年の
大雨を契機とした洪水対策の目的で、大正2年から昭和5年にかけて掘削された人工河
川であることは広く知られるところである。
1-2 隅田川の歴史的背景
隅田川は、江戸時代に河川と運河により形成された、舟運流通のネットワークの主要
部として利用され、日本橋川の魚河岸との合流部としても重要な位置を占めていた。
さらには、屋形船や釣り船、猪
ちょ
牙
き
舟
ふね
、渡し船などの川遊び、堤防での花見、川開きの
花火見物(図5)も盛んになっていった。江戸時代の大名や豪商は船遊びを競い合い、
屋形船を仕立てて川にでることは一種のステータスシンボルだったのであろう。船遊び
はよほど江戸っ子の趣味に迎合したようであり、小旅行も船を利用して行われたとい
う。
船といえば、江戸幕府の豪華な御座船「安
あたけ
宅丸
まる
」が、江戸時代最大の軍艦として伊豆
で建造され、寛永9年(1632)に安宅河岸(現在の新大橋付近)に係留された。長さ
53mもの豪華船であるが、実用はされず50年もの間係留された後、解体されたという。
その後、明暦3年(1657)の大火では、隅田川にかかる橋が軍事目的から、千住大
橋のみとされていたため避難経路を断たれ、大惨事を引き起こした教訓から、以降は両
国橋(大橋)、新大橋、永代橋、大川橋(吾妻橋)が次々にかけられていった。
特に、幹線道路の一部とされた両国橋などの効果から、本所、深川方面に人、物資の
流通が盛んになり、隅田川の両岸には多くの人が集まるようになっていった。
図5 江戸の隅田川、両国橋
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出典:葛飾北斎「絵本隅田川両岸一覧」