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江戸時代には大祭前夜、神輿を観音本堂の外陣に安置され、びんざさら舞も堂前の舞
台で行われていた。そのことからも分かるとおり、当時は浅草寺と一体となった祭りで、
「観音祭」又は「浅草祭」と呼ばれた。
昔の氏子は、観音の縁日にちなみ十八ヶ町、南から諏訪町、駒形町、三間町、西仲町、
田原町、東仲町、並木町、茶屋町、材木町、花川戸町、山之宿町、聖天町、浅草町、聖
天横町、金竜山下瓦町、南馬道町、新町、北馬道町、田町があった。このうち材木、花
川戸、聖天を宮元三ヶ町と呼び、すべてを総称して浅草郷とも千束郷とも云った。
祭礼は、今日のように本社神輿を担ぎ廻ることよりも、むしろ氏子十八ヶ町や、片町、
茅町、天王町、黒船町、三好町などから繰り出された山車が中心で、各町がおのおのの
趣向で行列の勢いと絢爛さを競い合った。また、昔の祭礼は蔵前筋や浅草橋の各町にま
で及ぶ広範囲のものだった。
祭礼当日の早朝は、山車を中心とする祭礼行列が浅草見附の御門外に集合し、御蔵前
から諏訪町、並木町と並んで仲見世から境内に入り、観音堂に安置された神輿の前に参
詣の上、おのおのの芸能を演じ、随身門(二天門)を出て自分の町へ帰って行った。こ
れが終わると「お堂下げ」と云って神輿三体を本堂から降ろし、一の宮を先頭に浅草御
門の乗船場まで担ぎ、待機していた大森在住の漁師の供奉する船に神輿を乗せ、浅草川
(隅田川)を遡って駒形から上陸し、浅草神社に担ぎ帰った。この船祭は、江戸末期ま
で続き、明治に入って廃絶した。祭礼は、明治5年から5月17日、18日の両日に行い、
現在の氏子各町に神輿の渡御を行うようになった。
○今の祭礼
氏子の四十四ヶ町と浅草組合で構成される浅草神社奉賛会により運営されている。
現在では交通事情や各町の情勢変化で、慣例通りの5月17日、18日の両日の大祭執
行が不可能となり、昭和38年から17、18日に近い金曜日に神輿神霊入れを行うように
なった。土曜日に氏子各町連合渡御、第三日曜日に本社神輿の各町渡御を行い、例大祭
式典、びんざさら舞奉納などもそれに伴い日程が決まっている。
写真10 大正12年5月撮影
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当時、神輿庫には新旧7基のお神輿があった。