- 2 -
2-2 中央線のあゆみ
3)
(1)「甲武鉄道」という私鉄で産声を上げた中央線
2)
JR中央線は、明治の昔『甲武鉄道』という「私鉄」で産声を上げました。当時は馬
車が主な輸送機関でした。明治2年(1869)に日本橋から新宿・中野・杉並の青梅街道
を通り、田無まで走った馬車が営業馬車の最初といわれます。しかし馬車では、「より
大量に・より速く・より遠くまで運ぶ」という輸送の役割を果たしきれない。そこで東
京と多摩地方等を結ぶ新たな輸送機関である鉄道が求められ、甲武鉄道が誕生しまし
た。もともとこの鉄道は、多摩や山梨などからの、丸太や石灰石などの特産物を東京に
輸送する役割を持って開業されました。そこで路線名は、甲斐国(現・山梨県)と武蔵
国(現・東京都)を結ぶ目的を持って計画されたので、国名の頭文字を取って「甲武鉄道」
(最初は「甲武馬車鉄道」)としました。当初、羽村(当時・神奈川県西多摩郡)から
四谷大木戸(現・新宿区)間を玉川上水に沿って馬車鉄道を走らせる計画を立てました。
玉川上水沿いならばすでに整地されているし、大半がなだらかで線路が敷きやすかった
からです。しかし、江戸の人々の飲み水を確保するために造られた上水路沿いを鉄道が
走ると「不潔極まりない」と、許可されませんでした。
(2)甲武鉄道の近代化
甲武鉄道は明治19年(1886)に東京市内~八王子間を馬車鉄道から蒸気鉄道に変更
して出願、翌明治20年(1887)には設立が認められました。以降、明治22年(1889)4
月に新宿~立川、8月には 立川~八王子を開業しました。こうした結果、甲武鉄道は東
京市内の御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿 を経由、多摩郡を横断し八王子に至る鉄道(動
図3 蒸気車往復繁栄之図 明治22年(1889)
2)
新宿駅から小金井桜への観桜列車