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力=蒸気のち一部区間は電気を併用、軌
間=1067mm)を保有・運営しました。
新宿から東京市内への路線延長は、当
初は甲州街道沿いが計画されましたが、
青山練兵場や三崎町の工廠の後押しもあ
り、 明 治22年(1889)5月 に 申 請、7月
に仮免状が下付されたもので、明治27年
(1894)10月には新宿~牛込が、明治28
年(1895)4月に牛込~飯田町が開業し
ています。これは更なる延長が計画され、
明治23年(1890)に飯田町~万世橋を出
願、明治33年(1900)には当時計画中の
東京縦貫高架鉄道(現在の上野~新橋のJR鉄道路線)の接続を条件に免許状が下付され、
このうち明治37年(1904)12月に御茶ノ水までの延長が完成しました。
開業から明治24年(1891)までは新宿で路線が接続し、創立委員長の奈良原繁が社
長を務めた日本鉄道が営業管理を行っていました。また、東京市内区間での旅客が増え
たことから明治37年(1904)8月21日に飯田町~中野間を電化し、日本の普通鉄道では
初めて電車運転を行いました。車体長10mほどの二軸車ではあったが、総括制御を採用
し重連運転も可能で、郊外電車として十分な性能を備えていました。この電車運転区間
は複線化されていました。なお、柏木(現在の東中野)-立川付近の一直線の線形に特
徴があります。これは、第二次大戦後「甲州街道および青梅街道沿いの敷設を予定して
いましたが、住民の反対運動により田園・林野地域を通した」といわれてきましたが、
近年の研究で確たる証拠がないことから否定されつつあります。
(3)中央線の国有化と万世橋駅の開業
明治39年(1906)公布の鉄道国有法により同年10月1日に甲武鉄道はお茶ノ水~八王
子間が国有化され、八王子以西の官設線と一体化された。国有化される直前の明治39
年(1906)3月から御茶ノ水~万世橋間の電車延長工事が行われていましたが、国有化
後も工事は引き継がれ、明治41年(1908)4月19日に御茶ノ水~昌平橋間が開通して電
車運転が開始されました。昌平橋駅は市内ターミナル・万世橋駅開業までの仮設駅でし
た。明治45年(1912)4月1日に昌平橋~万世橋間が複線・高架で開通し、同日、赤煉
瓦の堂々たる万世橋駅が開業して昌平橋駅は廃止されました。明治後期から大正12年
(1912)の関東大震災まで、万世橋駅のある須田町一帯は東京市電の集まる交通の要衝
盛り場の一つでした。万世橋駅は中央線の新ターミナルにふさわしい駅前風景を現出し
ていましたが、遠距離列車は相変わらず飯田町駅を起点としていたため、万世橋駅に発
写真1 甲武鉄道の四輪単車
3)
甲武鉄道が電化時に投入した32両の四輪単車が
国鉄電車の始祖となった。