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その後港区は、勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城など幕末外交や明治維新の拠
点として、あるいは、文明開化における鉄道(明治5年(1872)新橋と横浜間鉄道開通)・
ガス・新聞の発祥地として、時代の転換期の舞台となってきました。
現在の港区の姿は、昭和22年(1947)3月15日、旧赤坂区、旧麻布区、旧芝区の3
区の合併にその誕生を遡ります。なお、「港区」という名称は、3区合併を機に、各区
の関係者から提案されたもののうち、「今後の我が国の発展は貿易の振興にあるが、そ
の素材ともいえる東京港を包含している」として「東港区」が候補となりましたが、「東
港区」では「東京都東港区」のように類似する音が重なることから、「東」の1字を除
いて「港区」となりました
1)
。この名称は新区が誕生する前の、昭和22年(1947)2月
26日に決定されています。
その後、大正12年(1923)9月1日に起こった関東大震災により、港区では地震や
大火災で芝区を中心に甚大な被害を受け、被災者はおよそ10万5千人に達しました。
震災後、日本は第二次世界大戦へと悲劇の道をたどります。終戦間際の昭和20年頃
(1945)には、東京大空襲を始め連日・連夜空襲や空爆を受け、港区の死者は1,051人、
負傷者は9,100人を数え、153,800人もの人々が被災しました。この戦争で区の大半は焼
失し、赤坂・青山・六本木はほぼ全焼、増上寺や多くの文化遺産が焼失しました。
写真10 江戸無血開城を決めた「勝・西郷会談」が行われた薩摩藩屋敷跡地
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写真11 大震災直後の赤坂見附の倒壊家屋
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写真12 大震災直後の新橋付近の惨事
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