3 1-2 荒川の歴史的背景と変遷 荒川はその名の由来のとおり「荒ぶる川」で、古来より洪水等により流域に住む人々 の生活を脅かしてきました。古来より人々は洪水と戦い、また、荒川の恩恵を受けなが ら、人と川との知恵比べを通して、人間は荒川の氾濫域に生活の場を求めてきました。 荒川の歴史とは、「洪水との戦いと共生」を意味しているといっても過言ではありませ ん。それでは記録が残る範囲で、荒川の洪水や歴史について遡ってみましょう。 (1)荒川の洪水の歴史 表2に記録が残る範囲で、荒川の洪水履歴の記録をまとめました。このように、荒川 の歴史とは、洪水から人々の生活を守る治水との戦いの歴史そのものなのです。 表2 荒川の洪水の歴史(記録が残るもの) 2) 時代 洪水記録年 洪水の記録 平安 天安2年(858)秋「三大実録」に武蔵国水勞との記述があります。 鎌倉 建仁元年 (1201)8月 「吾妻鏡」に8月の暴風雨で、下総葛飾郡の海におぼれ4,000人余りが標没した記録があ ります。 健保2 ~ 3年 (1214~ 15)頃 鴨長明が編纂した「発心集」には、武州入間河原の事、として、堤の中に畑や家屋があり、 洪水により堤が決壊し、天井まで水が溢れ、やがてゆるゆると家が濁流に押し流されて いく様子が残されています。 安土桃山 慶長元年(1596) 100年に1度といわれる洪水記録があります。 慶長19年(1614)諸国出水の記録があります。 江戸 元和3年(1617)入間川洪水の記録があります。 元禄元年(1688)荒川洪水の記録があります。 寛保2年(1742) この洪水は数多くの古文書が残されています。この洪水がいかに大規模であったかを物 語っています。この洪水では荒川、利根川が氾濫し、関東一円が浸水しました。浅草で 水深7尺(約2.1m)、亀戸で12、13尺(約3.7m)、死者3,900余人、救助された者186,000 人と伝えられています。 安政6年(1859) 安政6年(1859)の洪水では、7月25日、荒川筋の各所で堤が決壊し、また、市ノ川筋、 入間川筋も破堤してしまいました。浸水家屋は吉見領で1,263戸、川島領では床上、床下 合わせて約600戸が被害を受け、冠水は7日間続きました。熊谷宿では総戸数の約1割以 上が、流失あるいは破壊されました。 明治 明治43年(1910) 明治以降、荒川最大の出水となるこの洪水は、利根川の洪水と合わせ、埼玉県内の被害 は、破堤945箇所、死者・行方不明者347人、住宅の全半壊・破損・流出18,147戸、床 上浸水59,306棟、床下浸水25,232棟にも上りました。 昭和 昭和22年(1947) 昭和22年のカスリーン台風では、総雨量は熊谷で338mm、秩父で611mmに達しました。 そして、荒川において、9月15日午後7時30分、熊谷市久下地先において100mにわたり堤 防が決壊しました。埼玉県内の全壊・流失家屋は1,121戸、床上浸水家屋は44,855戸で した。終戦からわずか2年、戦後の混乱期で荒廃した国土を猛烈な豪雨が襲い、甚大な 被害となりました。 昭和49年(1974) 昭和49年の洪水は台風16号によるものです。台風16号の雨は8月31日から降り始め、 翌9月1日の降り終わりまでの総雨量は荒川上流部380mm、入間川流域220 ~ 320mmに 達し、護岸や堤防法面の破損が、40 ヶ所に及びました。 昭和57年(1982) 昭和57年の洪水は、台風18号によるものです。9月10日の降り始めから12日の終わりまでの 総雨量は、三峰336mm、名栗348mm、川越338mmとなり、入間川や新河岸川で大きな被 害を受け、特に新河岸川では、流域の、朝霞市、志木市、富士見市で浸水家屋9,285戸に及 ぶ被害が発生しました。特に新河岸川では、被害総額211億円にも及ぶ災害となりました。 平成 平成11年(1999) この洪水は、弱い熱帯低気圧による8月お盆期間中の大雨によるものです。荒川流域で は13日夜から14日夜にかけて断続的な豪雨に見舞われ、三峰観測所では総雨量497mm を記録し、熊谷・治水橋水位観測所では観測以来最高水位を記録しました。この洪水 では、堤防未整備地区で浸水被害が発生しています。 平成19年(2007) 平成19年の洪水は、台風9号によるものです。荒川流域では9月5日から7日にかけて大雨 となり、5日からの総雨量は、三峰雨量観測所で573mmを記録し、都幾川および高麗川 の各観測所でも氾濫危険水位を超え、周辺流域に被害を及ぼしました。