4 (2)荒川の歴史・変遷 それでは、荒川の歴史・変遷について、「平安~鎌倉~室町~安土桃山時代」、「江戸 時代」「明治時代~現代」に分けて、記録が残る範囲で概略紹介します。 1)平安~鎌倉~室町~安土桃山時代 荒川の名は、古くは「三大実録」の中で、天安2年(858)秋の武蔵国水勞、「吾妻鏡」 の中の、建仁元年(1201)8月暴風雨による下総葛飾の海溢れ、また、建保2~3年 (1214 ~ 1215)に編纂された「発心集」(鴨長明の編纂)の中の武州入間河原の事とし て洪水の記録とともに歴史の表舞台に登場します。記録によると、鎌倉時代には、元荒 川筋の鴻巣市と吹上町(現、鴻巣市)の境界付近には「箕田堤」・「太田庄堤」、熊谷市 付近の荒川左岸に「熊谷堤」がありました。鎌倉幕府による越辺川と都幾川合流点の堤 防修理の記録や、室町~安土・桃山時代にかけて後北条氏が、川島町伊草の入間川と、 熊谷・鴻巣市周辺の元荒川筋に堤防を築いた記録が残されています。この時代の治水は、 武士階級の勢力が強く、富と武力を蓄えるために、積極的に治水工事を行い、新たな農 地の開墾や、領土防御・物資輸送のための水運に利用されていました。しかし、江戸時 代以前は河川改修も小規模で荒川本流の流れそのものに手を下したことはありません でした。 2)江戸時代 江戸は、徳川家康が入府する以前は、荒れた湿地が広がる、小さな漁村にすぎなかっ たといわれています。しかし、徳川家康が入府後、家康の大号令のもと大規模な造営工 事や治水事業が行われ、近世城下町として変貌を遂げていきます。なかでも、家康にと って江戸の都市整備・改革を進めるうえで、河川改修整備事業は最も大きな意味をもつ 大土木事業でした。現在の荒川の流路は、江戸時代初期に行われた土木事業がその原型 となっています。江戸時代以前の荒川は、元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古 利根川)に合流していました。荒川は、その語源のとおり「荒ぶる川」で、扇状地末端 の熊谷付近より下流でしばしば流路を変えていました。家康にとって江戸の都市開発 台東区周辺 3) 吾妻橋周辺 3) 図3 明治時代の洪水被害 墨田区向島周辺 4)