- 19 -
3-2 水利用
武蔵野台地にはいくつか、湧き水が出ているところがあり、そのまわりや川となって
流れているところに人々が住みはじめました。市内には大昔に人が住んでいた迹とし
て、遺跡が多く見つかっています。近代以降の水利用については技術ノートNo.26「東
京の台地」等に譲り、ここでは太古の人と水との関りについて述べます。
(1)旧石器時代
後期旧石器時代(およそ3万年前から1万5000年前)の遺跡として有名なのは、先述
の鈴木遺跡です。当時の人々の生活はまだ農耕や牧畜によらず、動物を対象とした狩猟
を行ったり、自然にあるものを採ったり集めたりして暮らしていました。この遺跡は、
人々は2~3家族ぐらいの少人数のグループで生活し、集落が営まれることはなく、狩
猟採集の場として利用されていたものと考えられています。狩猟に使われた石器が数多
く発掘されています。
(2)縄文時代
井の頭恩賜公園からは、旧石器時代の石器や、縄文時代(およそ1万5000年前から
2400年前)の家のあとや、石器や土器がみつかっています。縄文時代は、地質年代で
区分すると更新世末期(融氷期)から完新世にあたります。縄文時代の中期ごろには、
関東平野では内陸まで海岸線が入り込み、「海進」の状態となっていました(縄文海進
と言います)。縄文時代の食生活は食物採取生活であり、ドングリなどの堅果類や野生
のイモ類を中心に補完的に魚肉や獣肉を食べていたようです。当時の食生活では、食中
毒の予防のために、縄文土器を用いた煮沸が行われていました。一方、主食であった堅
果類やイモ類は有毒な成分が含まれていることが多く、水や灰汁にさらすことで毒抜き
をしていました(トチの実には有毒のサポニン等が、ドングリにはタンニンが含有して
います。クズ、カタクリ、ユリなどの球根も毒抜きして食されていました。)ユリ目に
属する彼岸花も有毒な植物ですが、縄文時代以降、飢饉の時には食用とされていました。
そのなごりとして、田圃の畦等に群生しています。以上のことから、縄文時代の生活に
は、現代の私たちが思っている以上に水が重要であったと想像できます。
(3)弥生時代
吉祥寺南町3丁目からは平成16年に行われた調査で、弥生時代(およそ2400年前か
ら1700年前)の土器のかけらがみつかっています。稲作を主な生業とするようになっ
た弥生時代では、水田が作れる場所を集落としました。